縁起 ~西蓮寺の歴史~

□西蓮寺歴代略記

西蓮寺歴代略記

夫れ豊之前州企救郡倉府西蓮寺開基了空
姓は村上天皇の後胤村上勘解由太輔(たいふ)為正なり
老年に至り頻に菩提の道を欣慕するなり
殊に高祖鸞聖人の宗風に帰す
是れ播州亀山本徳寺准専僧都の門に遊び
しこうして後薙染(ていせん)して了空の名を賜う
天正十五年(一五八七年) 秀吉公西国に下向す
同七月上洛の時豊前国を黒田勘解由孝高公に賜う
了空播州より来て豊前の仲津に往す
この時西蓮寺を建立するなり
准師 遺附開山の真影、同じく聖人真翰(しんかん)紺紙
金泥光明本十字名号(三朝高祖上宮太子・御
影)と譲与す
慈父了空なり
今に到りこれを安置す
また慶長八年(一六〇三年) 孝高公筑州を
領するの時 細川忠興公豊前に移り 倉府を
して城下となす
乃ち 太守方一町を賜る しこうして仲津西蓮寺より移る
(第二世 了源 記 ~小倉移転に際して~)

□西蓮寺歴代

第一世 了空 天正一九年(一五九一年)八月二十日寂(顕如上人代)
第二世 了源 承応元年(一六五二年)八月二〇日寂(良如上人代)
慶長一五年(一六一〇年)一〇月二十日権大僧都の倫旨頂戴。

西蓮寺踏絵図

切支丹宗禁制の令出でしより、宗門改め事創まり、則ち寛永一六年(一六三九年)以降、毎年三月下旬を以て耶蘇影踏を執行す。是は寛永一四年(一六三七年)島原陣の時、 二代(了)源小笠原公に従ひ、島原に出陣したる縁故に依りて、殊に小笠原公より本件の執行所と定められ、耶蘇の影像を当寺に預けられし也。影像は宝暦年間(一七五一年~一七六三年)より更らに寺社奉行の所管に属せり。判行所、小笠原公倉府に在る迄、当寺に定まれり。之れに依って小倉全町より、仏飯米を役所より町頭に命じ、毎年当寺に納む。天保四年(一八三三年)頃なる右袋集め記入帖、今猶ほ存ず。〔西蓮寺記録〕
場所は城下真宗西蓮寺に於て、切支丹の祖耶蘇の像影を足下に踏みて、其宗門を信ぜぬ証と為すの一儀なり。元来此宗門改めの西蓮寺に於て行はれしは、遠く故へ有ることなればなり。同寺小倉開山第二世に当る了源権律師の時、島原役起る。当時小倉の城主小笠原忠眞公、島原出陣の時、了源律師乞ふて忠眞公に従ひて、陣中に在り。賊将森宗意軒戦死の時、彼れが持てる耶蘇の銅板の像は、其時小倉勢の手に入りしし也。夫より凱陣の後、之れを西蓮寺に預け置かれしより、同寺にて此事ありし也。〔小倉城田中氏著〕
 此宗門改め帳は、其整理の前に於て、毎年恒例の絵踏を執行す。爰に其手順の概況は、小倉城下に於ける場所は、当初より西蓮寺と定まれり。俗に此寺を板行寺と唱へし也。
 此絵踏銅板の像を、外道佛と唱へ、平時は寺社奉行の保管にして踏み日に之を持出して実踏せしむ。尤多人数の事なれば、数日に渉るなり。士人の身分あるものより、段々と格式を追ふて、日取を定む。此士以下足軽迄済で後城下町人の役向を始め、下々迄残さず洩さず踏む事にてありき。 偖当日となりては、月番家老、大目付、士人の支配頭、宗旨奉行、寺社奉行(町奉行は兼務也)掛りの役々列座、各寺の住職、寺格に依て席順を定む。列座の中央に絵板を置く。其左右前後に小横目、町方同心控へ居る。士は上格より其名前を呼ぶ。本人席を立て板前に進み、先づ左足を板の上に掛けて、右足を併せて踏揃へ、越へて且寺僧の前に進み、挨拶を為して寺僧名前に証印し、本人も亦印判を押して退く。以下町人に至るも同一の手順なり。千萬一にも踏み直さしむ。三度誤れば即時に其者を捕縛す〔小倉城田中氏著〕。

第三世 西雲 寛文五年(一六六五年)正月七日寂(寂如上人代)
第四世 雲吟 元禄五年(一六九二年)三月五日寂(寂如上人代)
第五世 加雲 享保二年(一七一七年)四月二日寂(寂如上人代)
第六世 海雲 享保七年(一七二二年)三月四日寂(寂如上人代)
第七世 吟燈 延享元年(一七四四年)九月二一日寂(法如上人代)
第八世 吟龍 宝暦四年(一七五四年)九月二一日寂(法如上人代)
第九世 鳳吟 安永六年(一七七七年)正月一七日寂(法如上人代)
第十世 了吟 天明五年(一七八五年)八月二七日寂(法如上人代)
第十一世 吟洲 寛政七年(一七九五年)四月住職許可
天保七年(一八三六年)六月二九日寂(廣如上人代)
第十二世 吟泰 天保九年(一八三八年)六月一〇日住職許可
安政五年(一八五八年)一二月一三日寂(廣如上人代)
第十三世 吟超 文久三年(一八六三年)二月三日住職許可
明治一六年(一八八三年)八月二七日寂(明如上人代)
第十四世 浄現 明治一八年(一八八五年)五月二四日住職許可
明治三〇年(一八九七年)九月一六日隠居
大正九年(一九二〇年)五月二〇日寂(鏡如上人代)
第十五世 浄吟 明治三〇年(一八九七年)九月一六日住職許可
本堂再建(昭和三年《一九二八年》一二月二〇日落成)
昭和九年(一九三四年)六月九日寂(鏡如上人代)
第十六世 従孝(晴嵐) 昭和二〇年(一九四五年)二月一六日寂(鏡如上人代)
鳥町西蓮寺には目通九尺もある本堂を見下ろす大銀杏があった。昔は海行く船の目印となったと言われている。昭和三年(一九二八年)童謡作家の従孝(晴嵐)と親交のあった野口雨情が歌を書き残している。「小倉西蓮寺のお庭の銀杏は 月も宿せば 日も宿す」
第十七世 英之 昭和二七年(一九五二年)六月二日住職許可
昭和六十三年七月福岡県仏教連合会会長
平成三年十二月全日本仏教会副会長
平成七年五月一日寂(即如上人代)
第十八世 幸裕 平成七年六月二一日住職許可